小学校の先生方とのお話
先日数名の小学校の先生方とお話する機会がありました。
話題はまさに「初等教育の現状をこれから」。
やはり、どの小学校現場でも新型コロナの影響は甚大で子ども達にも多くの影響が出ているという事を聴きました。
それぞれの現場での話に尽きることはなかったのですが、特に印象に残ったことを記しておきたいと思います。
①現在の小学校カリキュラムにおいてかなり猶予のない状況に変わりなく先生方が困惑し、余裕がないということ
これは、今回の新型コロナの影響に加えて、小学校英語科の必修化や道徳の教科化などにおいて、ほとんど一切の時数(各教科において決められてる時間)に余裕がなく、じっくり1つの単元向き合う時間がないという事になります。もともと学校というのはスクール「school」ラテン語でスコラ「schola」という語源により、「ひま、余暇、余裕」からきていると言われます。たっぷりとした時間の中で、勤勉な先生や仲の良い友だちと学びを深めることが本来の学校の役割なのではないでしょうか。現場は真逆の状況だという事を話されていました。
②学校行事そのものを問い直す時期
今回それぞれの学校によって、運動会などの人々が集まる大きな行事は「中止」や「小規模での開催」という事になっているようです。これには正直な所、安堵の息を漏らす先生方がほとんどでした。(しかし終わらせなければならないカリキュラムに追われる先生と子どもに変わりはないのですが)今回、保護者の方々の中には学校行事の小規模化により子ども達がかわいそうと思う気持ちは大変よく理解できます。しかしその準備が本当に大変であるということ、そのしわ寄せ(準備により削られてしまったカリキュラム)が子ども達に返ってくるという事を忘れてはなりません。私は学校行事や園行事は、「子ども、保護者、職員、皆が楽しめる有意義なもの」が大切であり、「参加型」や「共有型」が主流になってくるものと予想します。例えば芋ほりやいちご狩りなどの収穫的行事。また様々な芸術(スポーツも含む)に触れることが出来るようなものが増えていけば、双方の負担が減っていくものと考えております。それぞれ行事を教師ではなくその道のプロフェッショナルに導かれた方が確実に子ども達の思い出として残るのではないでしょうか。
③自己選択と異年齢の有用性
これはモンテッソーリ教育を実施してる私の園の話について、小学校の先生方がご自身の経験を踏まえて大変盛り上がった議題となりました。まずは「自分で選んで決める」という事の重要性。小学校の先生方も私も皆、これまでの人生で自分で決めたことや主体的に大切だと思ったことに費やした時間は本当に身になるという事を実感してきています。教え込まれた知識や技術より、自らの内発的動機付けで決めたことに子ども達は責任をもって行動するという事も共有しました。その上で「モンテッソーリ教育」は幼少期から毎日が「自己選択」の連続です。それが通常でそれ以外を知らないということも先生方が感心されたことの1つでありました。
次に異年齢での活動。この夏のサマースクールでも当園ではもちろん異年齢で過ごしておりました。2歳から5歳でも毎日本当にドラマのような場面に出会うことがあります。先生方の中には、小中一貫校で勤められている方もいたのですが、小学生がいると中学生はとても小学生を意識し、自然と優しく接する姿をよく目にする。というお話がありました。我々は社会に出ると同学年の人と、同じ時間、同じ空間でずっと過ごすというようなことはまずあり得ません。年上、年下の人々と人間関係を築くという事になります。こういう面でもモンテッソーリ教育は有用であると先生方はお話してくれていました。
それ以外にもたくさんのお話をすることが出来、気づけば4時間以上の時間となりました。私は小学校の先生方に「授業」を第1に考え、大切にするプロフェッショナルな先生がいるという事を嬉しく思うと共に、私自身の更に研鑽を続けようと、気持ちの引き締まる思いでした。
今後も定期的に意見の交流、情報交換を重ね、公教育とモンテッソーリ教育の可能性について共に学び合えればと思っております。
待てるひと
園舎で生活してると子ども達が待っている姿をよく見かけます。
自分のしたいおしごとを別の友だちがしていた時に待ったり。
教師にお手伝いして欲しい時でも、先生が他の子のおしごとのお手伝いをしてるので待ったり。
今回はとても心が暖かくなるひと場面がありました。
1人の女の子が1つ学年の上の男の子と一緒にお気に入りの自作時計を作る製作をしたいと思い、紙やら道具やらを完璧に準備して誘いました。
しかし、男の子は別のおしごとへ。
教師が「先におしごとしてるから、少し待ってあげてね。」と伝えると、彼女は約10分ほど、席に座ってその男の子の様子を伺ったり、机をきれいにしたりしながらずっと待ちました。
男の子がようやくそのおしごとを終えると、何ごともなく一緒に楽しく時計作りを始めました。
恐らくこの女の子は「待つ」と必ず来てくれることを知っており、待つと必ずできるということを園舎内で経験してくれているのだと思います。
大人の私でも少し長いなと思った程ですので、今日も大切な何かを子どもから教えてもらったような、そんな瞬間に出会えた出来事でした。
子どもの成長
少人数での日々の子どもの様子を見ていると、子ども達の着実な成長が見てとることができてとても嬉しくなります。
おしごとの発達はもちろんなのですが、友だち同士での折り合い。例えば遊んでいる時に遊具が取り合いになった時、園舎では先に使っていた子が終わるのを待つよう提案しているのですが、子ども自らが「1つだったらいいよ。」や「一緒に使おう。」などの声を掛け合う姿が見られます。
園舎内で走ってしまう2歳児に3歳児が、「走らないよ。」と優しく声をかける姿。
時間を決めてごっこ遊びをしている2歳児。これまでは教師に時間を決めてもらって時間が来たら教師が声をかけていたのですが、先日は自分たちから「あっ。7のところに来たからおしまいだ。」と片付けを始めておりました。
そんな小さな出来事から子ども達の成長を見守ることが出来ることに幸せを感じます。
自分たちで、まさに「子どものいえ」を創っていけるような、そんな園舎になってくれれば良いと考えます。
また、月曜日に子どもたちの元気な「おはよう!!」が聴けるようしっかりと準備を整えていきたいと思います。
モンテッソーリ教育で育った子ども
近頃、明らかに教員時代よりも多くの保護者の方々(特にお母さん)と日々お話する機会があります。
もちろん小さな園ですから、当然と言えば当然のことではあるのですが。
しかし、はっきりとしていることは、お母さん方が、子ども達へ健やかな成長と主体的な人生を歩むことを切に願っているということです。
その思いはとても偉大で「母の強さ」に敬意を表すばかりでございます。
そんな中私が保護者の方からよく受ける前回述べた以外の質問の中に「モンテッソーリ教育を受けた子ども達ってどんな風に育つのですか?」というものです。
これは、私自身が1番興味深く、この先もずっと見ていきたい共通のテーマでもあります。
そんな中、ヒントになる本からの抜粋を紹介します。
相良敦子先生著「モンテッソーリ教育を受けた子ども達~幼児の経験と脳~」によると、モンテッソーリ教育を受けた子どもたちに共通する項目が以下に通りです。
・順序だてて、ものを考えることが出来る。
・なにをするにも、計画を立て、順序を踏んで、着実に実行する。
・段取りがよい。
・先を見通すことができる。
・1から出発する。
・省略しない
・状況の読み取りが速く、臨機応変に対処することが出来る。
・わずかな差異に気付き、道徳性が高い。
・ひとりで、たじろがない。責任ある行動が出来る。
・礼儀正しい。
確かに園舎でもその片鱗を見せてくれている園児がいます。それはモンテッソーリ教育の毎日の生活の中で育っていくものだと、日々子どもたちの活動をみていると感じさせてくれます。前半はまさに現在日本の教育界でも注目され、プログラミング教育などでつけようとしている「論理的思考力」であると感じました。又後半は「主体性」と「社会性」があるということになります。
表面上の礼儀正しさや主体性ではなく、本当の意味での「生き抜く力」を園舎でもつけていってもらいたいと考えます。
大学院の時の恩師の言葉がいつも浮かびます。
「自分を助けることが出来るのは、自分だけなんだ。」我々学生に向けて指導の意味での言葉だったと思いますが、今でも私の胸に刻まれています。
そのような力を、本当に様々な事を吸収する幼児期に、非認知能力の中からそして「生活」の中で自然とついていけるようになれば、そんな素晴らしいことはないと考えます。
もちろん、上記のことはデータ量の事や一概に言えないということも理解しながら、今後も子どもの成長を見つめ続けていきたいと思っております。
また、この本の中に保護者の皆様の疑問に答えられるような箇所があれば随時紹介していきたいと思います。
※出展:相良敦子(2009)「モンテッソーリ教育を受けた子ども達~幼児の経験と脳~」河出書房新書,P14
行事について
先日、4人のお子様を持つ保護者の方から貴重な意見を頂戴することが出来ました。
それは、様々な園舎で繰り広げられている「行事」についてです。
私は小学校教員時代に大きな行事のたびに、子ども達と教員である大人たちが苦労に苦労を重ねて、何か月も前から行事の「準備」をし、1日にして終わってしまう花火のような数多くの行事に携わってきました。
そこで思ったのは、モンテッソーリの言う、子どもは「いつも同じが良い」ということに繋がるのですが、1つの行事の為に費やされる時間と労力を子どもたちは本当に望んでいるのだろうか。ということです。おそらくほとんどの学校行事や園行事の実行について子ども達に選択の余地はありません。
子ども達は、そもそもそれらを求めているのだろうかと。常に自問自答しておりました。
「モンテッソーリ教育」だけでなくどのような教育活動でも、いや、どのような仕事においても「準備」がとても大切であるということは言うまでもありません。それは弊園舎の先生方にも常に意識をし、大切にしてもらっております。
普段の子ども達を完璧な環境で迎えることを大切にしていると、どうしもイレギュラーな行事は教師の負担になります。
ですので、我々は普段の子ども達の日々の生活を大切に「環境を整える準備」を怠らないよう、「日々」を重要視して「行事」は控えめにしております。
年中行事については「日本の文化」や「季節」を彩る継承の意味を込めて意義のあるものをと考え、子どもの育ちや学びを第1に取り組んでおります。
始めの話に戻るとそのお母さんは4人目のお子様を幼稚園に入れるとき、1人目の子と4人目の子では大きく変わってきたということをおっしゃいました。
それはやはり「1人目」のこの時はなにせ全てが初めての事であるから、ごくごく「一般的で大きな園舎で行事がたくさんあるところ」で幼稚園を探されたようです。
しかしながら4人目ともなると、とにかく「中身」を重視され「先生」「園舎の方針」で園を選ばれたようです。特に行事は必要ないのではないかというものも多く、保護者の方々にとっても負担になっていたものも少なくないとのお話がありました。
このようなお話をお聴きする中で、我々は今後も小さな幼児教育施設に変わりありません。そのメリットを存分に感じてもらえるような、日常の「日々」を大切にした、また子ども、教師、保護者の方々が納得感、満足感の得られるような行事を構築していきたいと思いました。
たった1人でも
近頃、ご見学頂いた保護者の方に、「小さな幼稚園では、子どもの社会性が身につかないのではないですか」とのご質問を受けました。
また、「モンテッソーリ教育では子どもが自分勝手になってしまう心配があります。」と言われたことがございます。
1つ目の質問に私はこの質問にこう答えました。
「子どもの社会性の発達には環境の部分はとても大切だと考えます。大きな幼稚園小さな幼稚園に関係なく小さな集団の中で、また幼児期においても異年齢で育っていくことが子どもの社会性を身に着けうる最適な環境であると考えます。」
というように。
子ども達は小学校に入学すると否が応でも、学校、学年、クラスなどの「集団」という「社会」に飛び出していきます。そこで、集団生活の「慣れ」ではなく、一人ひとりの「個」が育っているということが「社会生活」を送っていく上で大切であると考えます。
具体的には、
・自分の身の回りのことが自分でできる。
・相手の話を聞くことが出来る。(待つことが出来る。)
・自分で考えて行動する基礎がついている。
モンテッソーリ教育では、異年齢の小さな社会生活の中で自己選択の日々を繰り返します。まさに先ほど挙げました「個」の成長が自然と期待できるものと捉えております。
また、少人数であるということは、保育士や教師もきめ細かい目で子ども達を見守ることが出来ます。
私は小学校教員の新任時代、1クラス40名の大所帯でした。教室にエアコンはなく、本当にこの環境で大丈夫なのだろうかと心配になったほどです。
その後、最小の29名のクラスを持った時にはやはり、大人の目という部分(経験を重ねたということもありますが)では少人数が良いだろうと思いました。また、同年代の大規模による集団教育には過度の「競争原理」が働いてしまいます。
人の人生は他人と競うものではなく、他の人と協力しながら自分の人生を主体的に「生き抜く」ことが大切であると思います。ですのでそれぞれの教育環境の規模ではなく、子ども自身の判断、幼児期においてはご家族特にお母さんの判断が大切になってくるかと思います。
今は、どの学校も少子化の影響により、必然的に1学年の人数は少人数になっており、算数科や国語科で少人数に分けた学習も進んでおります。
やはり、小規模大規模に関わらず、子どもの主体性を育むための「環境」が子どもの成長・発達の部分において重要になってくるのではないでしょうか。
2つ目の質問にはこう答えました。
「モンテッソーリ園ではその逆です。」
よくモンテッソーリ教育について誤解があるのは「自分勝手になってしまうのでは」という所です。
モンテッソーリ園では「自由」という名の「放任」ではありません。
決して自分勝手な考えにはならない環境であると思っております。
その理由として、具体的には、
・モンテッソーリ教育の「おしごと」をする上での教具や道具が環境には「1つ」しかない。
・自分で使った園のもの(教具含む)は必ず次の人の為に元の場所に戻しておく必要があるということ。
・「自分でやりたい。」という「心が満たされている」ため「相手にも優しく接することが出来る」(情緒が安定している)
教具が1つしかないということは必ず順番が来るまで「待つ」必要があります。
(※詳しくは前回のブログ「待てるということ」をよろしければご一読下さい)
使った物をきちんと元ある場所に元の状態で戻すことは高津学院幼稚舎では当たり前のように、繰り返し伝え、覚えていきます。
最後の満たされた気持ちはとても大切であると考えます。大人でもおなかがすいていたり、寝不足だったり、人間関係で悩むときは他人に優しく接することが出来ないのではでしょうか。子どもも同じなのです。毎日自分のしたいおしごとを繰り返し(ここに保護者の方は引っかかるのだと思います。)自己選択の日々を送ります。この時点で与えられるのではなく、自分で行動を起こす日々ということになります。
私は長年、初等教育に携わってきましたが、大人数大規模の教育活動には子どもの主体的な成長に大きく寄与することはないと考えます。大きくなればそれだけ組織として「教育理念」をしっかりと共有する必要がありますし、その難しさは教員時代に痛感いたしました。
我々高津学院幼稚舎も、園児が全くの0(ゼロ)からのスタートでした。モンテッソーリ教師と共に「たった1人」でも今いる目の前の子どもを大切に楽しみながら働こうと声をかけております。
今後も多くの保護者の皆さまのお声をお聞かせ頂く中で、教育について気づいたことや考えを綴っていこうと思います。
「待てる」ということ
3歳児への絵本の読み聞かせの途中、どうしても行かなくてはならない用事ができたようで、教師が席をたちました。
少し心配になりその様子を見ていたのですが、初めは黙って待っていたようでしたが、少しずつ「まだかな。」
「○○先生もう来るかな。」から「この絵本○○だよね。」とひそひそと話しながら、教師が戻るまで子ども達はじっと待っていました。
私の感覚では少し長いように感じたのですが、教師が「ごめんね。お待たせ。」と言って戻ると何事もなかったかのように読み聞かせが再開されました。
子ども達は普段、1つしかない教具の環境に慣れています。
また、待っていれば必ず順番が回ってくるということも同時に覚えていきます。
時に、我々の方が慌ただしく過ごしておることもあり、慌てることのない子ども達から学ぶこともあります。
「待つこと」の大切さを園児たちとこれからも共有していこうと思います。
withコロナ時代の3つのS
緊急事態宣言が全国的に解除され、本格的に日常的にコロンウィルスとの闘いがこれから始まろうとしています。
園舎でもこれまで同様気を緩めることなく、部屋の換気、室内の消毒、職員の体調管理を徹底していきたいと思います。
多くの企業などでもテレワークやリモート会議が導入され、それの賛否についてもメディアが取り上げるようになってきました。
リモートで済ませられる会議などが洗練されていく一方、対面でしか行うことのできない「人」同士のつながりが大切であるということも同時に気付くことが出来たのではないでしょうか。
これらの経験を踏まえ、これからの時代は、「スモール」「スピード」「スマート」の考え方が大切になってくるのではないかと考えます。
これは「教育界」「保育界」においても例外ではないと思います。
小さな施設の中で、少人数で子ども達一人ひとりの成長を保護者の方々とコミュニケーションを取りながら見つめ続け、様々な課題に素早くスマートな対応を「高津学院幼稚舎」も更に意識していきたいと思います。
また、これまで幼児教育の中で当たり前に行われてきた、多大な準備が伴う子どもと保育士を苦しめる表面的で見栄えのみの大きな行事を疑い、子ども達の日々の生活を最重要視した日常を大切にした中身のある園になっていくよう邁進してまいりたいと思います。
常に「進化」していく園を目指します。
小さな先生
異年齢で過ごすと、年齢が上の園児が年下の園児に対して、それはそれは優しく接してくれています。
園のルールを伝えたり、身の回りの手伝いをしたりすることなどが抜群にうまいときがあります。
我々大人がどうしても時間の都合やこちらの考えで声掛けをしてしまいそうになる時、年上の子は、
「○○ちゃんは、こういうことを思っているかも知れないよ。」と年下の子に寄り添った考えを教えてくれます。
身支度に手こずっている年下の園児には、
「今度は○○ちゃん先生(年上の園児)が行くよー!」と笑顔でお手伝いに行ってくれています。
思えば、小中一貫校に勤務していたころ、職員室に呼び出されて説教をされている多感な女子生徒が中学校の先生に対して向ける目と、小学校の低学年にせがまれ遊んであげている時に向ける優しい目線の違いに驚いたことがあります。(この生徒はこんなに優しい目をするんだな。どうか先生にも理解してもらえたらな。と切に願いました。)
子ども同士の世界の中で、より身近な感覚でそして子ども本来の持つ優しさで自然と笑顔で過ごしてくれていることに、やはり異年齢で過ごすことの大切さに気付かされる毎日です。
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